そこに工場がある限り

今回ご紹介する本は、

 小川洋子さんの「そこに工場がある限り」。 

 

そこに工場があるかぎり

そこに工場があるかぎり

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2021/01/26
  • メディア: 単行本
 

 

この本は、小さなころから"工場好き"だった小川さんが、工場見学で感じたことを記したエッセイ集です。

物書きである小川さんの工場見学、それだけで興味深いですよね。

 

魅力は何といっても、小川さんが書き記した言葉・表現を通して感じられる、工場やそこに携わる人たちの空気感や温度・湿度・肌触り、そして味わいではないでしょうか。

 

工場という場所にある、世の中の多くの人の日常を生み出す、職人たちの日常。

でも、わたしたちにとっては、非日常の世界ですよね。

知っているようで知らない世界。

その一場面を切り取って、味わい深い表現で届けてくれます。

 

思わず、登場した工場をググってみたりしちゃいましたよ。

それほど、その表現と工場に惹きつけられる本だと感じています。

 

 

少し、本文を引用して、その素敵な世界観を体感してみましょう。

 

~"穴"を創ることを生業としている工場、"細穴屋"のお話からの引用~

「細穴の奥は深い」より

 

「穴は基本中の基本です」社長は名言を口にされた。

まさにそうだ。何であれものを作るのに穴は欠かせない。………

100円ライター1個だって、穴なしでは作れない。

「王様の耳はロバの耳」という少年の声を受け止めるのも、死者を埋葬するのも、やはり穴である。

にもかかわらず普段、人々からはさして振り向いてもらえない。

それどころか靴下に穴があいたりすると大いに迷惑がられている。

何もない空洞。あるのにない。

穴とはもともと、主役にはなりきれない星のもとにうまれているのかもしれない。

 

ふと気づくと、金属に穴があきはじめている。

そもそもの目的がこれなのだから、驚く必要もないのに、なぜかとても不思議な現象を目にしている気分になる。

一点の窪みが少しずつ、慌てず慎重に、奥へ奥へと潜り込んでゆく。

電極と金属は一定の距離を保ち、決して触れ合わない。

電極の回転も、穴の形成も、想像よりずっとゆっくりしたスピードで行われる。

金属はまるでそれが自らの意思であるかのように、穴を受け入れている。

この密やかな営みを、火花が祝福している。

 

物を創ること、それ自体を一つの物語として、言葉を紡いでいく。

その物語も、さまざまな視点から描かれていて、読者をその世界の奥深くまで連れて行ってくれる。

そんな感覚にさせてくれます。

 

そして、小川さんが工場で感じたワクワクを、読者にも感じさせてくれる。

行ったことのない工場の世界と、私たちの身近な世界とつないでくれているようです。

 

小川さんの、深くやわらかい言葉・表現が、体の内側深くにスーッと染み込んでいく。

浸透していく。

そんな感覚にすらさせてくれる。

 

そんな表現で届けれくれるからこそ、わたしたちが小川さんと同じ体験をしているような感覚に、させてくれるのかもしれません。

 

さらに引用してみると…

 

一つの三角柱、一つの四角柱、一枚の板を前に、その人の目は穴をあけるべき一点にのみ注がれている。

「私がここに穴をあけない限り、飛行機は飛べ立てないのだ」などと驕った気持ちに惑わされたり、

「ああ、この部品が何万個も組み合わさってぴかぴかの自動車になるんだ」とうっとり自己陶酔に溺れたりもしない。

頭の中にあるのは一筋の穴、ただそれだけだ。

 

両手と視線と呼吸が一つながりになって、正しい位置を探っている。

どんなに針が振れようとも、金属はピクリとも動いているようには見えない。

人の目には映らないところで、密かに垂直の戦いが繰り広げられている。

正直、私はじりじりしてくる。

だいたいもう、そんなところでいいじゃありませんか、と叫びそうになる。

しかし技工士さんに一切の動揺はない。

頭で理屈をこねる間もなく、ごく自然に指先が反応していると分かる。

時折図面に視線を送りながら基点を探り出す表情は、見事に研ぎ澄まされている。

 

職人たちの、研ぎ澄まされた感覚が伝わってきます。

目の前にある"もの創り"一点への集中。

職人たちの息遣いや体温、その場の空気感。

読者ですら、そこに、その作業に集中してしまうような、そんな表現。

 

そこには、著者の職人たちへの敬意も含まれているのかもしれません。

 

……………………

 

今回は、穴を創ることを専門にしている工場を見学した場面を引用しました。

ほかにも、その味わいのある言葉たちが、たくさんの工場見学に連れて行ってくれます。

 

この本を一読すれば、小川さんと工場を訪れている感覚にさせてくれるかも、しれません。